
「事業承継が終わりました。」
そう聞くと、多くの人はこう思います。
株式を引き継ぎ、代表取締役の変更登記を行い、取引先へ社長交代の案内を出す。これで事業承継は完了した、と。
もちろん、それらは事業承継に欠かせない大切な手続きです。
しかし、私が多くの事業承継の現場を見てきて感じるのは、本当の事業承継は、その手続きが終わった日から始まるということです。
なぜなら、手続きは引き継げても、信頼関係は手続きでは引き継げないからです。
社長が代わると、会社を取り巻く関係性が動き始める
社長が代わると、会社を取り巻く人たちも動き始めます。
社員は、「この新しい社長についていけるだろうか」と見ています。
銀行は、「これからも安心して融資できる経営者なのか」を見ています。
信用保証協会も、新しい経営者の考え方や経営姿勢を確認します。
仕入先は、取引条件を見直すことがあるかもしれません。
得意先も、「これからも任せられる会社か」を改めて見極めようとします。
親族や関係者も、新しい社長をさまざまな視点から見ています。
これは決して悪意ではありません。
会社を取り巻くすべての関係者が、新しい経営者との関係を築こうとしているのです。
私自身も、その壁を経験しました
私も若くして事業を承継した一人です。
銀行からは、それまでとは異なる条件を提示されたことがありました。
「先代には言えなかったのですが……」
そんな言葉とともに、融資に慎重な姿勢を示されたこともあります。
社員との関係に悩み、取引先との距離が変わったと感じたこともありました。
仕入先から保証金や担保の提供を求められたこともあります。
親族から、「なぜ彼なのか」という空気を感じたこともありました。
当時は苦しく、「自分が否定されているのではないか」と感じたこともあります。
しかし今振り返ると、それは私個人への評価ではありませんでした。
新しい経営者として、本当に会社を任せられる存在なのか。
それぞれが、それぞれの立場で確認していただけだったのです。
アトツギが乗り越えなければならない壁
だから私は、事業承継では「社長になること」と「社長として認められること」は別だと考えています。
社長就任は、一日でできます。
しかし、社員や金融機関、取引先から信頼を得るには時間がかかります。
その時間を焦らず、一人ひとりと丁寧に向き合い、約束を守り、対話を積み重ねることが、新しい信頼につながります。
これは避けて通れない、アトツギの壁です。
本当の事業承継とは
事業承継とは、会社を引き継ぐことではありません。
会社を取り巻く信頼関係を、一つひとつ引き継ぎ直していくことです。
登記は一日で終わります。
しかし、信頼は一日では築けません。
だからこそ、事業承継の準備とは、手続きの準備だけではなく、社内外の関係者とのコミュニケーションを計画的に進めることでもあります。
先代が長い年月をかけて築いてきた信頼を、新しい社長が自分自身の信頼へと育てていく。
その積み重ねこそが、事業承継の成功につながるのではないでしょうか。


